正伝永源院
について

由 来

当院は、元々『正伝院』と『永源庵』の統合から生まれ、いずれも臨済宗大本山建仁寺の塔頭でした。明治時代には廃仏毀釈政策が行われ、その影響で仏教排斥運動が起こり、建仁寺領も四分の一に縮小されました。
当時、永源庵は不運にも無住であり、即座に廃寺となりました。しかし、永源庵が建仁寺の真北に位置していたため、堂宇の取り壊しを免れ、代わりに本山の北東に位置していた正伝院がその地に移りました。この時、寺名も「正伝院」と改められました。これが明治六年の出来事ですが、詳細な経緯についての資料は、当院や本山には残っておらず、かえって当時の動乱の激しさを物語っています。

断片的な資料から見ると、「永源庵」は細川家の始祖である細川頼有およびその後の八代にわたる菩提寺であり、多くの菩提寺の中でも最も重要な寺でした。廃仏毀釈の影響で一時的に霊牌などを引き取り、関係を整理しましたが、細川侯爵は「永源」の名前を残すことを望み、「正伝永源院」として寺名が変更されました。

歴 史

鎌倉時代中期、文永年間(1264-1275)、大覚禅師の法嗣である中国僧義翁紹仁勅謚普覚禅師によって、正伝院が開山されました。
一方、南北朝時代の正平年間(1346-1370)には、永源庵が建仁寺39世・鉄庵道生の法嗣である無涯仁浩禅師によって開山されました。永源庵は初めは東山清水坂鷲峯下にあり、細川頼有が出家し住持になりました。細川家と永源庵の縁は深く、のちに建仁寺塔頭に列しました。
室町時代年間(1398年〜)、永源庵は現在地に移ります。しかし、天文年間(1532-1555)の京都での戦乱により、正伝院は荒廃しました。
江戸時代(1618年)、正伝院は織田有楽斎により再興され、有楽斎の没後には正伝院に隠居所が寄進されました。


明治時代(1868年)には神仏分離令後の廃仏毀釈により、建仁寺塔頭が廃される中で、永源庵は無住となり、堂宇のみを残します。
1872年、正伝院は境内の建物を放棄し、寺号のみを残して旧永源庵の現在地に移りました。
1873年、永源庵は廃寺となり、その名を憂いた細川侯爵により正伝院と合併し、「正伝永源庵」と改名されました。同時に、茶室「如庵」は祇園町有志に払い下げられました。
1909年(もしくは1908年)、正伝院の旧地の伽藍は売却され、移転が行われました。この時、書院、茶室「如庵」、露地も東京に移されました。
昭和年間(1962年)、織田有樂斎の家族の墓は、正伝院旧地より現在地に移されました。

狩野山楽

京狩野初代・狩野山楽(一五五九〜一六三五)は、近江出身。父は浅井長政の家臣で、浅井氏滅亡後は豊臣秀吉に仕えた。その秀吉の推挙により山楽は、十六歳頃に狩野永徳の門人になったと伝えられる。
若い頃には永徳の絵画制作に従い、やがて狩野の姓を許されている。永徳没後も、あふれる才能と抜群の技量によって、有力門人として活躍した。
ところが、元和元年(一六一五)、突然の危機が訪れる。大阪の陣による豊臣家の滅亡である。山楽は、豊臣残党狩りの標的となって命を狙われ、一時期、石清水八幡の松花堂昭乗のもとに身を隠す。 その危機から救ったのは、公家の九条幸家および二代将軍徳川秀忠だった。以降、四天王寺や二条城など徳川家の仕事につく。命をつないだ山楽は、京都で描き続け、濃厚華麗な画風を後継の山雪に伝えていくことになる。

如 庵

本歌の「如庵」は明治時代の廃仏毀釈を受け、「正伝院」から有楽斎の誕生地である名古屋の犬山に移築され、今から約30年前、前住職であった真神仁宏により中村昌生氏の監修のもとに、細川護貞氏、織田五二七氏、千家十職や当院の責任役員永楽即全氏、善五郎氏ら多くの法縁者の援助により、平成八年十月に本歌と瓜二つの名席が完成しました。如庵の額は、細川護貞氏による揮毫です。
有楽斎は信長の弟として戦乱の世を巧みな処世術で生き抜き、信長亡き後も政治の中で奮闘しました。その後、有楽斎は剃髪し俗世を離れ、隠棲の場として正伝院を安楽の地とし、茶道に専念するために如庵を創りました。この空間で有楽斎が一心に茶に没頭し、何を求め、何に向き合い、何を目指したのかを想像してみてください。

有楽斎四百年遠忌法要 献茶

武野紹鷗供養塔

紹鷗は堺の商人で、千利休の師としても知られます。彼の二十五回忌にあたる天正7年(1579年)、娘婿であり弟子の今井宗久が堺の寺に供養塔を建立しました。江戸時代初期、織田信長の弟であり茶人でもあった有楽斎が、隠棲していた正伝永源院の前身である正伝院を境内に移したとの記録が残っています。
しかし、明治初期の神仏分離の影響で正伝院の土地は没収され、塔も大正5年(1916年)に藤田家が入手しました。その後、藤田家の邸宅跡地の「太閤園」(大阪市都島区)に置かれていました。2021年春、藤田観光が太閤園を売却したことを契機に、約100年ぶりに正伝永源院に戻ることが決定しました。この奇しくも有楽斎没後400年の節目に、有楽斎の強い願いが呼び寄せられたような偶然があります。
この塔は竜山石製の五重塔で高さ約6m。初層の四方には仏像が浮き彫りにされています。2021年10月上旬に庭園に運ばれ、有楽斎の木像がよく見えるように本堂に設置されました。
また、正伝永源院に伝わる有楽斎の墓石は、この塔を模したものとされ、やや小ぶりですが形は似ています。